「それを知ってどうする」
アットゥシ織を教わりたいと技術を継承する方に直接電話をした時に言われた言葉だ どう答えたか覚えていない 結局教わることは叶わなかった
今から20年近くも前の話
以来、それは私の中でほぼトラウマになっていたのだが
文様の考察を経て、少し理解が出来るようになった気がする
アイヌ民族だけでなく、どの民族にとっても、織りとは、自分や家族を守る祈りであり、民族の存続への祈りであり、信仰の対象であり、精神世界の具現化そのものなのだ
だから、「それを知ってどうする」とは
これは趣味で覚えるものではない、仕事としてやるものでもない、表面的にその技法だけを覚えてあなたは何がしたいのか?という意味だったのではないかと思うのだ
過去に理不尽に奪われた文化、技術
様々に複雑な感情も渦巻いていたのだろうとも思う
こんな風に簡単に私などが言えるものではないくらいの
しかしその時の私はだただた 北海道で植物から糸を取り織ることをしたくて、手当たり次第に情報を得ようと方々駆け回っていた
それが配慮に欠けた不躾な態度に繋がった
恐らくは そのことを突きつけられ
自分の中に何もないことを思い知らされ
勝手に傷ついていたのだと思う
時代は変わり、今は、良いものは「シェア」して皆のものにしようという世の流れがあり、アイヌ文様、アットゥシ織も、一般に技術を公開し習えるところも増え 広く皆のものになってきている
それはそれで喜ばしい事だし どんどんそうなればいい
でも、それとは別に、葛布の帯を織る私個人としては、根底にある民族の祈りのようなもの、その具現化とも言える織りや文様を模倣してどうする、と、
確かにそう考えるようになった
恐らくは葛布もずっと元を辿れば同様なのである
しかし 商業的に生産されてきた歴史も厚く、私が知りたいと思った時には既に皆に広くその技術が公開されていたから、私は今こうして取り組むことが出来ている
そのことを有り難く受け止め、知った責任、学んだ責任のもと、より良いものづくりに励みたいと思わずにはおれない
2019.4.29記
(追記)
この文章を読んだ方の中に、「今ならここで教わることができるよ」という情報を教えてくれる方も数人おられました
そのお気持ちを有り難く思いましたが
現在は、オヒョウの繊維取りやアットゥシ織りを習おうとは全く思っていないことをここにお伝えいたします
2019.5.30 記
★続編 アットゥシ織りに思う・2