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Site icon image雪草乃記-Ⅲ

Sessou-no-ki : Sessou’s Blog | 染織家・葛布帯作家 雪草のブログ

時間の力を借りる知恵

苧麻の繊維をエゾイラクサ方式で採ってみて数年が経った(放置した)。エゾイラクサ方式とは、簡単に言うと「初冬に立ち枯れたものを採集し芯を砕き繊維を剥がす」こと(あくまでも私の習った方法で、私の理解である)で、難点は表皮が取れにくいことだった。が、どうだろう。数年放置した繊維からは表皮が簡単に剥がれ落ちるのである。

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相変わらず分かりにくい写真で申し訳ないが、わざわざ表皮を落とそうとしなくてもこのように撚りをかけるだけで勝手にポロポロと落ちてくれるのである。

もっと年数の経ったもので、繊維がワタのようになっていてフワフワ大変柔らかくなっているものもあった。これはおそらく表皮を頑張って取った後、放置されたものであろう。

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「綺麗で白い繊維」にはならないが、日常使い、自分たちの分を賄うのであればこれで充分だ。もしかすると「綺麗で白い繊維」にするよりも強度や耐久性は勝るかもしれないので、この方が良いと言えるかもしれないし、綺麗で繊細でより美しいものを作ろうとすると手間がどんどん増えるわけだが、現代残っている手仕事の類は全てそういうものばかりであるのかもしれない。
そもそも現代に残っている数々の逸品は、「そういう類のもの=誰かの何かのために特別に作られたもの」であるわけなので、考えてみれば当然なのだ。

ここからは私の仮説であるが、人類が自分用に何かを作ろうとする場合、「なるべく自分の手間をかけず自然の力や時間の力を借りる」方法であったのではないか、ということを考える。例えば風、水、熱(温泉)、太陽光、時間。何しろ生きるためには他にやることがいくらでもある。一つのことにそんなに手間をかけてはいられない。

現代では何でもすぐに完成させたい(=時間の感覚が短い)ので、そのために逆に余計な手間が増えることとなり、よって「手仕事は途方もない手間がかかる」という思い込みに陥っているのかもしれない。人間の手の入っていない「自然」から自分らが使う何かしらを作るための期間として、数年単位の時間の感覚を普通だと捉えることができるかどうか。「時間の力を借りて手間は最小限に」という知恵は、現代において、もはや我々には想像もできないくらいに完全に消滅しているのかもしれない。

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こちらも何年も放置されている苧麻の繊維

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エゾイラクサ方式で採取した苧麻の茎。これは一部で、毎年採っているので結構な量が溜まっている。

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こちらはオヒョウの木の皮。流石に木の皮は草の繊維と同じようにはいかない。こちらも放置されたままだ。

日常のものや身の回りの紐類ぐらいは、自宅庭から取ったもので賄いたいと思って何年も経ってしまっている訳だが、経年による変化を観察でき、これはこれで良い体験ともなっている。

ところで苧麻は北海道にはない植物である。以前庭に植えたが越冬できなかった。ところが最近では栽培している方が複数おられ、驚いている。我が庭の株もそうした方から譲っていただいたものだ。気候の変化ゆえなのだろうか?国内外来種とならないように、十分気をつけなければとは思っている。