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Site icon image雪草乃記-Ⅲ

Sessou-no-ki : Sessou’s Blog | 染織家・葛布帯作家 渡邊志乃のブログ

文様アーカイヴ2015-2022 

文様について真剣に考えだしたきっかけとなったのはこの時ではないかと思う

今、絣を織りたくて、でも自分の中に何もない事が分かって、改めて色々と資料をあたっている。単に技術という事でなく、古くからある文様と、そこに横たわる人々の営みと
(2015.9.29記)

以下、2018年〜2022年に文様について書いた文章をピックアップし転載する。


日本の伝統的な柄は実はあまり馴染みがなく どうしても異国の文化のもののように思えてしまうのだが アイヌ文様は 何故だかしっくりと 馴染むような感覚がある 
小さな頃から 良く触れていたからだろうか
それとも 土地ゆえのものだからだろうか
両方だろうか 
(2018.2.7 記)


文様は単なる柄ではなく たくさんの情報が詰まっていることを改めて考えるようになると 今まで何の気なしに見ていた文様に 圧倒的な力のあるものと そうでないものと あるのにも気づく
至極個人的な感覚ではありますが

(2018.3.29 記)


しばらく前から「文様」について考えている

衣服の文様、模様について

その起こりには何かの必然性があったのだろうと思うので

それを探りたいと

そして 北海道に暮らす「これからの」文様とは

どのようなものだろうかと

(2018.3.25 記)


日本の伝統的なものはどうしても異国のもののように思え
緊張感すら覚えるが 
アイヌ民族の文様には 親しみと懐かしみとどこか安心するような気持ちを抱く
着物も同様、どこか他の国の衣服という感覚を持っているが
純粋に素晴らしい衣服だと思うので 好きで 着ています


北海道は日本にあって日本ではない
=私は日本人であって日本人ではない
という感覚を ずっと持っている
2018.3.25記


使うもの 素材の特徴が生きた作り方であるかどうか、その上での実用性はどうか 柄や文様はそれらの素地がしっかりとしている前提のものでなければならない

(2018.4.1 記)


アイヌ民族の文様に端を発し
北方民族の文様 生活文化に今 非常に心が動かされている 
北海道は北といっても世界的に見ればまだ暖かいほうで微妙なところだけど 「日本」の歴史と文化より北方民族のそれの方が自分の現生活と照らし合わせてもずっと腑に落ちる感覚があるので
気候文化的に やっぱり北海道は日本にあって日本にあらず

2018.4.3 記


面白いのは 日本の文様、衣服の柄は 自然のものや道具などといったモチーフの種類が多く それらが単独で独立して用いられる事が多いのに対し

北の文様はモチーフとなる自然のものはごく少ないがそれらの多様な組み合わせで 文様が無限に続くような連続性があるということです

2018.4.9記


結局こういう所に行き着く

こんなに分厚い本 久しぶり

そして非常に読みづらい

どこまで読み込めるか分からないが

内容は非常に興味深い

私個人の関心は なぜ紋様が生み出されるのか

そこには必然性があるはずで それは何なのか

『プリミティヴアート』/フランツ・ボアズ 木村敬一 訳

(2018.4.15記)

読了

といっても 後半の解説部分はあまり読んでいないし かなりの部分は流し読み とにかく読みづらいし量が多すぎた

内容の5%も理解できていないと思うが 今の段階でおぼろげにイメージできたのは 人々の生活に紐付けられる芸術は エンドレスにぐるぐる巡る ということだ

用途→人々の意識、悦び、技法の習得→形(紋様、形式、外観)→解釈、意味付け→用途・・・

というように

始まりも終わりもなく

美への欲求、心理は 世界共通なのか

(2018.4.28 記)


北方民族の紋様、アイヌ民族の紋様を模した商品が アイヌ民族の工芸品以外に殆どないことを不思議に思っていたが

それらの紋様は民族の根幹というかアイデンティティーに関わる部分で 家ごとや人ごとに微妙に紋様が違ってそれが受け継がれたりしているのだから 個人的な趣味の範囲なら良いが 商いとして利用するのはタブーなのだな ということを今更ながら考える

人として心情として それはとても大事にしたい

でも 「伝統の継承」という観点からすると、それではいずれ先細ってしまうのではないかとも 思うわけで

そこはやはり 日本の伝統的な柄のように 誰でもが勝手に使えて勝手に商売にできる風になるのが良いとも思えますし

要するにこうした状況の中で私がその紋様を意識したものを制作するとすれば、どこか「北方を彷彿とさせるような柄ではあるが伝統的なそれとは違う」という 大変微妙なものを作らねばならないということで、

そもそもが、大変微妙で難しい問題なのだと気づく

2018.5.3

※後に考えを大幅に変更 (参照)


素敵な柄や模様というのは もちろんあるのですが

機能的、生産過程的にその存在理由が裏打ちされているかどうか、また、実際の機能面、使い心地はどうなのか?といった点に 私は大変興味があるし 作る上でも その部分の比重が大きいです

逆に言えば 機能的に優れていたり生産過程に過不足なく滞りなく作られたものであれば 人は本能的にそれを美しいと感じるのだと思います

2018.7.23 記


textile と text  そしてtexture
語源が同じと知って衝撃を受ける
textは 織られた という意味なのですね
織りは 文字と同源の
いやむしろ 文字の根源の
情報の伝達手段なのだなぁ!
と 感動したのです

2018.7.26記


アイヌ紋様、北方民族の紋様などの紋様について色々と考えをめぐらせた後、染織や布についての本などを乱読しているうちに もう 無地しか織れない気持ちになってしまった
簡単に紋様に手を出せなくなった というのもあるが それよりも 布の表情が良くわかるのはやはり無地で、特に草木の布は 生成りに勝る色柄はない
布は情報の伝達手段 とは先日書いたが
草木の存在していた証というか 草木そのものの持つ情報を 偽りなく伝達するには 無地しかないのではないか
と 考えているのである
無地は織りとしては非常に高度なことなのだが
それを経て 自分なりの文様が生まれるのだろうか?
2018.7.29記


無地に思う

とにかく無地であるがゆえの 葛の糸と絹の糸の表情が際立ち それはあまりにも美しく

もう無地しか織れない気持ちに 拍車がかかる

もし何か文様を施すとすれば 糸、布が ますます美しく その表情が際立つような方向性と確信を持てた時か

または その文様に 何かの必然性がある時か

そのような気持ちになるほどに 素材自体に力があり

無闇に手を出せば その美しさを殺すことになりかねない


制約の中の美、文様の必然性

「ウパシ(雪)」は 私の中で長いこと変わらない重要なテーマの1つ

今回 個展に向けて 雪を彷彿とさせる 藍の青の無地を織ろうと思っていたのだが 必要な細さの青の糸の量が若干足りなかった
北海道の乾いた雪は繊細なイメージ
太い糸は似合わないし かといって 他の色の糸を使えば無地の美しさを損ないかねない
しかしそれなのに裏腹に
柄を入れたい気持ちもムクムクと顔を出し
柄、文様を施したくなるのは 理屈抜きの人間の性(さが)なのか?などと悩んでいるうち
経糸のプランが決まらないま半日が過ぎてしまった
「糸量」という制約の中から生まれるものも また「美」であり 「文様の必然性」でもある
のかもしれない
資源は常に有限


今年に入ってから「文様」が気になって仕方ない
文様、紋様、模様の起源、必然性
色々文献を読み漁っているのだが
そんな中の この本 何度読んでもジンとくる
text texture textile 全て語源は同じ 
布は言葉 布はメディア
文様とは?未だ分からないが
『布のちから』/田中優子(朝日新聞出版)
2018.10.10 記


今は ただ無地を織り どうしても文様をつけたくなる動機が起こるのを待っている

それが起こるのは 周りからなのか 自分の中からなのか 布自体からなのか 分からないが

帯の 目指したい用途はあって そこに結びつけるに相応しい 根拠のある 文様

2018.12.18記


衣服は その性質と起源を考えると

最終的には、使い手の意図、意志、目的が入り込むことで 完成するものなのだ と

文様、柄について考えていて派生的に思い至る

2019.1.8 記


布と民藝
紋様の根源的な起こりのようなものを考えていると必然「織り」というか「布」の根源的な起こりにも触れてくるのだけど そういう事を知るにつけ
手織りや手染めや 刺繍などで紋様を施された布は
現代的消費社会、商業的感覚で捉えられるものではないので そこに乗せて考えるのは 結構「ダメ」なんじゃないか と 思うようになった
今までは どうにか「仕事」として 成り立たせようと思っていたのだが
そういう感覚で捉えきれるものではないのではないかと
その流れでいくと 「布」は 「民藝」というカテゴリーにも属さないのではないかと 思うのです
2019.2.22 記


文様、紋様の根源的な起こりは

高尚な理由などなく ただ単にものすごーく「暇」だったから なのではないかと 思った

理由や意味づけは 後からついた

いつしか それらが逆転し 理由が先立つようになったのでは と

植村和代著『ものと人間の文化史169「織物」』(法政大学出版局)という本の中に、「必要は発明の母は間違いである」という記述がある

逼迫した状況ではなにも生まれない そんな余裕は無いから とあるが 全くその通りだと思う

2019.1.22記


『着物と帯の性質の根源的な違い』
衣服の柄と刺青とは その事の起こりの流れは同じであるというのは ほぼ間違いないようで
それは時に祈りや呪術的意味があり
時に病を癒す薬であり
時に自他を分ける証であり
すると衣服には元々 祈りを込めたり 薬として用いたり 自他を分け自己 または家系家族を特定する性質があるということで
「脱ぎ着できる皮膚」として機能していた時代や地域があった または 現代でもある のだろうと 想像できる
そこへいくと
「着物の帯」は 衣服の一部ではあるが
「脱ぎ着できる皮膚」と言えるほどには 皮膚とは密着しておらず 性質的には装飾品に近く
着物とは 身につける意味合いが根本的に違う
個人的には 女性着物の帯は肝臓と腎臓を守る位置にあると思っているが
とにかく 柄や文様も 着物と帯とでは 自ずと性質が変わってくると 思い至った訳なのだが
装飾品となると 元々持つその呪術性や祈り 自己表現 としての意味合いが 衣服よりも更にずっと強くなるのではないか
すると 「文様の必然性」も必然的に生まれてくる とも捉えられるわけで、などと 考えるのである
2019.1.26 記


帯は装飾品であるから 文様は必須であるとも思えるが

身につける時には 帯締め 帯揚げ 時に帯留め 根付 扇子 など 加えるものも多く

衣服でありながらも装飾品の性質を濃く持ち

しかし

それ単独で装飾品となるわけではない点が

大変特殊である

2019.2.17記


自生する植物から糸を取り布を織る

その事の存在意義のようなことについては ずっと考えているし 多分 手織りをする人は 多かれ少なかれ そういう事をずっと考えていると思うが

手織りの布は 昔は 文明の発達の証であったが

機械生産、安価な衣服が普通になっている現代においては

「人間も自然の一部でしかない」ということの感性を取り戻す または その事を忘れないための ツール としての役割があるのではないか

2019.2.20 記


最初は 文様の根源的な「起こり」を知りたかった
なぜ人は布に模様を施したくなったのか 

次に 文様の必然性について考えるようになった
どうしてこんなに手の込んだ事をしなければならないのか?

そして 柄を織る必然性が自分の中に何も無いことに気づき
無地しか織れない気持ちになって無地を織ったら
絹と葛の布のあまりの美しさに圧倒され
ますます無地しか織れない気持ちになった

しかし、引き続き 布の起源、織物の起こりや世界各国のいわゆる民族的紋様について調べ触れ考えていくうち 布には紋様が「無ければならない」と考えるようになった 
のはごく最近

それに伴い、柄や模様を見る目が大きく変わった
なんと言うのだろう?
こちらに訴えかけてくるような圧倒的力のある柄とそうでない柄が
自分の中でハッキリと区別されるようになったのです
2019.2.7 記


作家性、個性、創作性、意匠性などといった個人的な感覚や造作が
素材の美しさを損ねてしまうかもしれない
と思うので
出来るだけ 絹と葛と、織られた布だけが存在するように努めているが
なかなかそうもいかないのでもあるが
文様の根源的なものを知りたくなったのも
私個人のちっぽけな創作欲を一度消し去りたいと考えたからなのかもしれない
2019.4.24記


『日本の装飾と文様』などとタイトルつけられては買わずにはいられず
届いて開いて ビックリしたのが縄文時代の土器や土偶の文様、形
もちろんその形状は知っていたが 表面的なことしか見ていなかったというか
きっと 文様について思いを巡らせている最中だから 改めてドカンと鮮烈に響いてきた ということか?
すごい
文様、紋様の根源的な起こりについて知りたく
以前 フランツ・ポワズ著『プリミティブアート』という難解な本を読んで 1%くらいしか理解できなかったのだが
なんだ 日本のプリミティブアートは(我々の知りうる限りは)縄文か!
という 当たり前のことに今更気付く
アイヌ民族、という強烈な歴史を抱えた文化が北海道にはあるので 文様を考える上でその事が私の中でも大きな壁となっていて 考えの及ぶ範囲が狭まっていたかも知れない
それに
北海道は縄文文化の時代が長く その後擦文文化の時代が続くわけですが 後のアイヌ文化との境が不明瞭なのは当たり前にしても その文化の違いの理由というか その連続性が全く分からない事が どうにも私の中で納得がいっていなくてずっと釈然としていなくて 
アイヌ文様、民藝、日本的文様、といった以前に
もっともっと根源的なもの、という私の興味関心は どうもその辺りにあるらしい
縄文文化は近頃ブームのようで
皆 同じようなことを考えているのだろうか


『日本の装飾と文様』解説・監修 海野弘
/パイ インターナショナル
2019.4.24


text と textile そして texture の 語源が同じで元は「織る」という意味だったと 知って 衝撃を受けたのだが

ふと気付いたのだ

なんと「文様」は「文」だった
そして「紋様」は 「糸の文」だったのだ!

ビックリした

日本語としても 織ることと文字のまとまりとは同義と捉えている事になるのだろうか

「文様」「紋様」は 情報や意思伝達の手段であり 単なる「柄」とは一線を画すものでなければならないのだ

2019.3.28


文様、紋様について
一年くらい考えているな とは思っていたが
昨年の今日に端を発しているらしい
書いてある事のいくつかは
既に私の中で変化している 
例えば アイヌ紋様については
文様の起こり、必然性についてアレコレ調べたり考えたりし
その間、北海道命名150年の式典での諸々や 百年記念塔解体にまつわる諸々を 経て 
私などが安易に模すべきではないと 今は思っているし
「北海道らしい文様」というのにもさほど拘りは無くなった 
文様は 作る人より使う人のものなので
でもやはり変わっていない考えもある
2019.3.25 記


文様を考え出して辿り着いた場所の1つとなるだろう
大型本なので写真も大きい

ページを繰るたび 写真の中に吸い込まれる
この表紙の写真も、ね?釘付けになりませんか

私はやはり 技巧的なことよりも 文様を施すに至る精神世界、その必然性に興味がある
文様の そもそもの起こりは何なのか?

絶版の本でも読めるのが有り難い
後に梅原猛の文章をまとめた文庫本が出ていたので購入

『人間の美術 縄文の神秘』梅原猛 渡辺誠 /学習研究社 1989

2019-4-29記


全ての芸術が目指すものは音楽である

つくづく 音楽はすごいなと思うのは
単なる楽器と音の組み合わせなのに色々な情景をまとって大きな塊となって人の身体に影響を与えること、そしてその組み合わせが無限にあるということ
同じ音、同じ楽器なのに 長さと強弱と組み合わせ方により 何故にこうも 見える情景が変わるのだろうか

色がないのに色が見え 風景が見え
言葉がないのにメッセージが伝わり
さまざまな感情を掻き立てられ

音は足早に流れ去り 儚いのに
見えた風景は音楽とともにずっと心に残る

「すべての芸術が究極に目指すものは音楽である」
とはニーチェの言葉だそうだが
その言葉を知った時には激しく同意した

(2019.3.10記)


紋様、文様は やはり 単なる柄ではなく 深い意味と想いが込められている または籠るものであるという事が 実感として腑に落ちた

大昔からの人々の 少しずつの想いが積み重なっている訳なので そこには言葉を介さないコミュニケーションが、

しかも現代・対面におけるコミュニケーションだけでなく 時を超えたコミュニケーションが、

生じる訳で とてつもないロマンも感じる

2019-8-4


文様について考え出して辿り着いた一つの区切りに縄文時代の装飾があるのだけど

引き続きこんな本を読んだ 大変面白い

『月と蛇と縄文人』(大島直行著/寿郎社)

読みながら朧げに考えていたのは

私達が普段何気なくしていることにも 過去から続く深い精神世界が実は根付いており

科学的思考優勢な現代では誰もそれを全く意識しないどころか ともすれば揶揄されがちであるけれど

その精神世界を掘り起こし意識し直すということが 争いや恨み 理不尽な悲しみのない 豊かな暮らしを実現する上で 実はとても重要なのじゃないかということと

手による衣食住の創出は 実はその一環であり 葛布、自然布、手織布 もっといえば 着物という衣服、その文様 果ては道具の構造や装飾 仕事の仕方にまで 現代の私達には気づきもしないくらいに深い精神世界とその具現が 眠っているのだろう そういうものに私達は無意識に 綺麗、美しいと感じたり 感動したり 訳もなく涙が出たりするのだろう

という事です

考えてみれば 例えば植物染料を取り糸を染める その行為自体も 考えようによっては大変呪術的であり そうした観点からすると 手作業による仕事は 残すとか残さないとかいう問題ではなく 私達が生きていく上で絶対に必要なものなのだ とも捉えられるのです

(補足説明)

どういう世界が科学的に正しいとか間違っているとかいうことは 大した問題ではなく

個々人の持つ世界観が 豊かで健全で幸せな暮らしの実現に役に立っているのかどうか?という視点が大事なのだと思いますし そうした世界観は恐らく無意識的直感的に真理を捉えていて ただ それを説明するための具体的な象徴として 非科学的で非現実的と思えるような 様々なものが様々な形で語られているのであり 縄文の装飾もその一環であり 多分そのうち科学的に色々のことが分かってきて それらは融合していくのだろうとも思えます

霊感商法的なものや 高額な金品を要求されたり 生活が堕落するような宗教を盾にした集団などは もちろん論外です

2019-8-10


「布(textile)」と「文章(text)」は語源が同じ

「紋様」「文様」も「文」という漢字が含まれているのだから 元は恐らく同義なのだろう

布には本来 その土地 その人 その民族の 言葉 文章などの情報が詰まっている

情報伝達手段がこれだけ発達し 個のアイデンティーも多様化した現代においては

布の 直接的に情報を伝達する役目を意識する事はとても少ないが

そうした中で私は

文様、色、織り、暮らし、その他諸々 日々の考察を文字にすることと

布を織ることを

結びつけたいと思う

私にとって 布は

日々の考察の具現であり 新たな考察の源であり

いつも側にあり 体やモノ 空間を包む

自然の営み 生命の底力を感じ

心地良く 美しく ホッとするもの

2019-10-24


幾何学模様は体と心に影響するかも

文様については一昨年〜昨年に引き続きずっと考えを巡らせているが
文様の原初的なもの=プリミティブアート的なものを廻った後、最近は幾何学文様に思いを寄せている いや幾何学文様もプリミティブな文様の一つなのかもしれないが
人の思考やエゴの入り込む隙がない 意図はしても意思は働かない
ものの成り立ちという意味での自然の摂理に則った完璧なバランスとその力強さ
そうしたものを日常目にしたり使ったり身に付けたりすることは=心身に影響する、「心身が整う」ということも十分にあり得るのではないか とすら思う
なぜなら ミクロな視点での 私達の身体の成り立ちの摂理も 恐らく同じであるから
文様は身体的実利的な意味があるのかもしれない 人が健康に生きていく上で欠かせないもの というような
すると急に日本の古典的文様が私の中でクローズアップされ、それらの文様に潜む凄み、力強さを感じるようになった
葛、葛布の持つ本来的根源的紋様に辿り着きたい
野に咲く花を見て癒されるように
衣服の色や文様は心身に大いに影響する 
もしかしたら病をも癒す力があるかもしれない

『麻の葉模様〜なぜ、このデザインは800年もの間、日本人の感性に訴え続けているのか?』
/ 大麻博物館著・発行

2020-2-28